「ユダヤ警官同盟」 マイケル・シェイボン 黒原敏行訳 新潮文庫2010/04/25 17:38

場末の安ホテルでヤク中が銃で撃たれて死んでいた。同じホテルに住み、アルコールで自らを慰めるランツマン警部は殺人現場に残されたチェス盤に惹かれるように捜査を始める。ランツマンは被害者の身元を調べ、その足跡を追う中で大きな陰謀の影を踏む。

「このミス」と「ミステリが読みたい!」の3位を獲得している作品です。量的には上下巻600ページくらいですが、ものすごく濃密な描写とユダヤ文化特有の難解な用語がぎっしりで読み切るのにすごく時間がかかりました。かなり重厚で読みごたえのあるお話でした。

実の息子を堕胎したことを悔やみ、妻に去られ、最愛の妹を事故で亡くしたランツマン警部が主人公です。息子を堕胎したことが旧約聖書のアブラハムのイサクの関係を暗喩しているようです。アブラハムには神の救済があったが、ランツマンにはなかった。そしてホテルで殺されていたエマヌエル・ラスカーことメンデルもまた、こちらはイエスとユダヤ人の関係を暗喩しているのではないかと感じました。

作中の濃密な表現で特に目につくのは匂いの描写です。ある意味気分が悪くなるくらいぎっしり描写してあるさまは、絵の具を執拗に重ねた油絵のようです。近くで見ると小汚いペーストを塗りたくったキャンバス布ですが、少し離れてみると味わいある静物画にみえる、そんな印象でした。

架空の歴史が背景になっていて、しかもあまりなじみのないユダヤの習慣や考え方にどっぷりつかっているのでなかなか理解が大変ですが、それはそれで楽しめました。ミステリとしてどうかといわれると微妙な気もしますが、面白い作品だと思います。

「容疑者χの献身」 東野圭吾 文春文庫2008/10/05 23:41

美しき隣人の犯罪の現場に居合わせた数学者石神は自らの思考力によってその母娘を守ることを誓う。事件の担当となった刑事草薙を介して物理学者湯川は同窓である石神と旧交を温めるも、やがて石神に疑惑を向け始める。数学者の仕掛ける悲しい罠を湯川は見抜けるか。

第134回(2006年)直木賞受賞作です。受賞時に押しかけた報道陣に不機嫌な顔で「今頃やっと受賞できた…」的なコメントをしていたのを記憶しています。候補に挙がっては落選、というのが繰り返されたのでしょうか。いろいろ思うところもあったのでしょうが、にっこり笑いながらチラッと毒の入ったコメントなんか入れると知的で良かったのでは、と思います。

じつはガリレオシリーズは読んだことがなく、たまたまドラマでチラッと見ただけです。やや荒唐無稽な科学ミステリといった趣きのために敬遠していたのですが、この話はそこは大丈夫でした。割と正統派のミステリだと思います。そこがくせものですが。

正直、感想は今ひとつなんですが、理由の一つ目はトリックにちょっと飲み込めないところがありました。指紋のところがどうかなと思った点と、あと目撃者が極端に少なすぎると感じられた点です。目撃者はある程度いても成り立ちそうなトリックですが、それならもう少し出しといても良かったのではないかと思います。

理由二つ目は、石神の行動を献身には感じられなかったこと。石神の行動は終盤に近づくにつれ、独りよがりでナイーブに感じられました。どうにもお話が向けようとしているベクトルに乗り切れなかったのもあって評価としては「イイ話」ではなく「う~ん」になってしまいますね。残念。

「雪虫」 堂場瞬一 中公文庫2008/07/27 23:24

湯沢で一人暮らしの老婆が殺害された。刑事鳴沢は緊急呼び出しを受け、現場へ急行する。何の変哲もない殺人事件は、しかし手がかりも少なく、遠く50年前の事件へつながっていく。やはり刑事であった父親、祖父を巻き込んで、真相は思いがけない方向へ向かう。

刑事鳴沢了シリーズの第一作のようです。文庫で9作が既刊のようです。ここまで続いていると、ちょっと悪い予感が胸をよぎりますが、本作に関してはそこそこ楽しめました。

話は割りと地味目のミステリーです。警察小説、とありますがそこまで踏み込んでいるような感じはしないですね。途中の展開もまずまず普通ですが、結末はなかなか変わったところへ落ちていきます。続刊を読みたい、という気持ちにさせるオチですね。

全般にハードボイルド調なのですが、主人公の鳴沢がちょっと饒舌ですね。パートナーの大西に対してもずいぶんとからみます。また、幼なじみとの邂逅があまりにうぶな感じです。この辺は鳴沢の青さを表現しようとしているのだ、と信じたいところです。こういう点も2作目以降を読もうか、という動機付けになるのでしょうか。

タイトルの雪虫は北国で雪が舞う前後に飛来する羽虫のことを指すようですが、北西の風に乗って舞うこの虫は、鳴沢の運命を暗示しているのでしょうか。

「行きずりの街」 志水 辰夫 新潮文庫2007/03/17 00:24

12年前、女子生徒との恋愛、結婚を糾弾されて教職を失い、その妻すら失った波多野。今、失踪した塾の教え子を捜すためにふたたび東京へ降り立った。教え子の周辺に立ち回るかつて自分を糾弾した男達、そして元の妻。深い悔恨を抱えながら波多野の探索は続く。

1991年度のこのミス1位だそうです。16年前というと、バブル真っ盛り、といったところでしょうか。東京が舞台ですが、当時の六本木はボデコンのおねーさんが闊歩する街、という印象がありますね。私自身は当時地方で細々と暮らしていたので単なるイメージに過ぎませんが。

人捜しハードボイルド物というジャンルがあるかどうか分かりませんが、そういう分類ですね。この手の話はすぐ出生の秘密がどうとか、蓋然性の低い事象をいくつも重ねた話になりがちですが、これはそういうのは感じなかったですね。もちろん、偶然の要素はあるのですが、許容範囲だと思いました。一方で、突拍子もないどんでん返しやわけの分からない陰謀、裏切りがないかわり、意外性や驚きもそんなにない感じですね。

文体はページにぎっしり文字が詰まるタイプで、私好みです。ただ、段落、台詞がちょっと長めな反面、その中で短い文が多用されていて、私の読むリズムにはちょっと合わない感じでした。それなりに面白いんですが、元妻との交情の部分以外は、描写が淡々としていてちょっと味わいに欠けるかなぁ、という気がしました。

個人的に一番いただけないのはタイトルでしょうか。行きずりの関係ってほとんど出てきてない上に、この話のテーマともあってないように思います。そもそもこの話、テーマがちょっと希薄な気がしますが、なんにせよ私ならタイトルは「エデンの果実」くらいにしますかねぇ。うーむ。それもベタか。